あの時のツイッター
2011年3月の大震災の時、私は東京で大学生をやっていたが、混乱の中で何人かの知り合いが、ツイッター上で
「私は〇〇(恋人の名)を愛しています」
と表明していたのを見て驚いた。
完全な若気の至りである。(後日、そのカップルは別れた)
だが、完全に他人事として笑うこともできない。
あの時、東京にいて、ケータイを持っていて、社会人でもなかった我々の間には確かにアルマゲドン的な雰囲気が漂っていて、電車が止まり、電話もメールも通じない中で、ツイッターだけは使えていて、テレビでは東北の惨状が映し出されていて、何か、今、世界が滅んでいくようなそんな悲壮感を伴う高揚があった。
それも含めて若気の至りなのだが、ずっと忘れていて、最近ふと思い出したので、ここに書いておく。
日本人のツイッター好き
加えて言えば、あの時、電話もメールも通じない中、ツイッターだけが動いていて、(デマもあったが)我々を助けてくれたという経験が、日本人を世界有数のツイッター好き民族に育てた一要因ではないか、という気もする。
楽しい誤植
「弱みを見せると漬け込まれる」
楽しい言い間違い
「源泉垂れ流し」
現場
ファミレスにて、脱毛サロンの店員らしき女性が、
「農業大学の客が泥だらけで来て参った」という愚痴を話していた。
現場からしか上がってこない話だ。
朝ドラ
カフェにて、今時珍しいほどの東北訛りで喋っている若い女性がいて、
上京したてっぽい素朴な雰囲気が朝ドラのヒロインのようだったが、
内容をよく聞いたら、「アムウェイって稼げるのかなあ?」
としきりに相談しており、既に夜ドラに突入していた。
ヤフコメ
Yahooニュースのコメント欄を読むのが好きだ。
「1億総コメンテーター時代」を象徴するかのようなコメントの数々に、
純粋な自己顕示欲が溢れていてゾクゾクする。
それらは主に
・皮肉
・自分語り
・上から目線
の3つに大別されるように思える。
なぜゾクゾクするかといえば、
それらは自分の心の奥底にある感情と似ているからでもある。
自分よりも下の存在を作りだし、自分を肯定したい心理だ。
そしてそれを「コメント(社会的な発言)」という包装紙で包む。
それを読む私も、コメント欄の発言を見て「こんなとこに書き込むヤツにはなりたくねえな」と見下すことで、自己を肯定しているのだ。