手羽作文

備忘録と反省文を兼ねて書くブログ

かつての難問

かつての難問

どうでもいいことだけど、私が義務教育の頃は、「既」を「キ」と読むのは、漢字テストなどでは結構難しい部類の問題だった。

LINEのおかげで今では超簡単問題なんだろうな

 

慣用句

こちらは何もしていないのに事態がどんどん複雑になってしまうことを「カバンの中のイヤホン」という新しい慣用句で表現するべきじゃないか

 

取り違え

突然、彼女が「チャンス大城の顔に異性としてちょっと惹かれるものがある」と言い出したので、私はやや複雑な思いを抱きながらその話を聞いていたのだが、やがて「トリオの時は”チャンスどんぐりRPG”みたいな名前でさ」みたいなことを言い出したので、ん?と引っかかり、よくよく問いただしたら完全に「Yes!アキト」のことだった。「Yes!アキト」と「チャンス大城」を完全に取り違えたたまま5分くらい話し続けていたのだ。

トリオ名にまで「チャンス」を含めてしまっているあたり、取り違えが徹底されすぎていて怖い。そして「Yes!アキトに惹かれる」と訂正されたところで、私が複雑な気持ちであることは変わらない。

 

浅瀬にいたい

「それは愛だね」とか「それは愛がないんだよ」とか、すぐ愛の話に着地させられるとなんか徒労感がある。もっと浅い話がしたいのだ。浅い話題には浅いなりの良さがあり、深けりゃいいってもんじゃない。

ピザまん事件に関する論考

ピザまん事件」という非常に些細な出来事がある。
それはとある冬の日に起きた悲劇的な事件だったが、非常に些細であったにも関わらず、その後数年経った今でも物議を醸している。
私はその事件の当事者の1人であり、また語り部としてこの事件を風化させないためにも、この場で出来事の概要とそれに関する論考を記載しておこうと思う。

 

事件の概要

当時、私は付き合い始めてまだ日の浅い彼女と、焼肉屋へ行った。焼肉を美味しく食べ、その場の会計は私が持った。帰宅の途上にて、我々は「アイスか何か飲み物でも買うか」と話しセブンイレブンに立ち寄った。
すると店頭に「中華まん100円均一セール」とのポスターが掲示されていた。それを見た彼女は「ピザまん食べたくなってきた」と言った。私は「焼肉を食べたのだから食べる必要はないんじゃないか」と難色を示した。「やめなよ」くらいまでは言ったと思う。しかし彼女の決意は固く、私の制止を振り切ってピザまんを購入した。
セブンイレブンを出ると、私のテンションは下がっていた。結果として黙りがちになった。(見方によっては「機嫌が悪くなった」という表現も当てはまるだろう。ただし攻撃的な言葉を発したわけではない)
帰宅後、重苦しい空気の中、彼女はピザまんを食べた。

以上が事件の概要である。
私は当事者であるため、全く主観が入っていないとは言えないだろう。しかし大きな問題ではない。このエピソードを私から聞いた知人の8割が「お前がおかしい」と断罪してきたからである。私視点の語り口にも関わらず、私に不利な結果になったのだ。しかしこの話題はなぜか盛り上がるため、さまざまな場で「あのピザまんの話してくれよ」と促されるままに披露することになった。披露したところで私はバッシングされるだけなので得はないのだが、バッシングされ続けるうちに私の中でこの事件に対する考えが深まっていった事も確かである。私はなぜ、ピザまんを購入した彼女に対してテンションを下げてしまったのか。
それについて考察していきたいと思う。
あらかじめ断っておくが、私は共感を求めているわけではない。自己弁護をしたいわけでもない。ただ自分という面倒くさい人間を正確に把握し、記述することに、なぜか意義を感じているのである。

ピザまんは別腹と思えなかった

今回の事件に対する最も多いリアクションはピザまんなんて別腹じゃん!」ということだった。私はピザまんを「軽食」に近いものと認識していたが、どうも「おやつ」あるいは「締め」に近いものとして捉えている意見が多かった。
もちろん私も、昼飯が食べ足りない時などはピザまんで繋ぐことはある。しかし、満腹の時に追加でピザまんを食べたいと思ったことは今までなかった。別腹といえば、確かにアイスクリームは私も別腹であると認識している。満腹時でもアイスを食べたくなる気持ちは理解できる。
では「飲んだ後の締め」の代表例であるラーメンはどうだろうか。正直、個人の感覚としてはあまり理解できないが、一般的な習慣として受け入れている部分はある。とはいえラーメンに関しては酒を長時間にわたって飲む人が、小腹を空かせて食べているイメージがあり、今回は当てはまらない。彼女は下戸だし、焼肉を食べた直後なのだ。
ちなみにアイスとラーメンに共通しているのは「水分の多さ」である。食べやすく、咀嚼をそこまで必要としないイメージがある。翻ってピザまんはどうだろうか。ピザまんには水分はない。むしろ水分を奪う側である。私は「別腹」かそうでないかを、水分の多寡で判断しているのかもしれない。
ともかく、少なくとも当時の私はピザまんを別腹とは認識していなかった。それゆえに彼女が「ピザまん食べたい」と言い出した時にまず驚き、戸惑ったのである。なぜ彼女が、このタイミングでピザまんを食べたいのかが理解できなかった。

世の常だが、不理解は分断を生んでしまうのである。

 

「上書き」されることの寂しさ

ピザまんは別腹」という認識に立てばまた話は変わってくるが、当時の私にとってピザまんは「軽食」という認識だったため、ピザまんの購入により、焼肉後に彼女が改めて食事をとるつもりだと感じた。そこで「寂しい」という感情が生まれたのである。それは、2人で共有していた「焼肉が美味しかった」という感情が、少なくともあと数時間は共有できると感じていたにも関わらず、唐突に片方だけ上書きされたという喪失感によるものだった。
ピザまん後、私が「焼肉美味しかった」という感情を抱いていても、彼女の心境は「ピザまん美味しかった」という内容に更新されてしまう。そのズレが、置いて行かれたようでたまらなく寂しくなったのである。
例えば、カップルでディズニーランドに行ったあと、帰り道にたまたま通りがかった「浅草花やしき」に片方だけ遊びに行ったらどうだろうか。なぜ「浅草花やしき」で上書きするのか、と思わないだろうか。大袈裟にいえばそういうことだ。
さらにいえば、結構いい焼肉を食べたのに、わざわざ100円のピザまんで更新するのは損じゃないか、という気持ちもある。

ピザまんは美味しいよ。美味しいけど、でも今じゃないだろう」と思ったのだ。

 

「奢ったこと」の影響

私に対する主なバッシングの1つに「焼肉を奢ったからうるさく言ってるんだろう」「そんなにゴチャゴチャ言われるなら奢ってもらいたくない」「心の狭い男だ」などという、金銭的な状況に原因を求めるものがある。確かに私も「奢ったからといって偉そうにする奴」は嫌いだ。
とはいえ、今回の件に関して私は「奢ったことは関係ない」とまで言うつもりはない。綺麗事を言っても正確な論考にはならない。
ただし、私は「奢る」という行為には、大きく分けて3つの型があると思っている。

 

①純粋な余裕や気前の良さによるもの

EX)ギャンブルで大勝したので奢る

②上下関係や「行為に対するお礼」など利害関係をベースにしたもの

EX)先輩なので奢る

③親愛の気持ちの表現

EX)初任給が出たので両親に奢る

 

全て明確に分類できるものでもないと思うが、この3つをごちゃごちゃにして考えるのも良くない。今回の件に関していえば③がメインなのである。これを①や②と同列で捉えられてしまうのは辛い。③の特徴は気持ちが乗っていることだ。気持ちを乗せてしまうと、それが「上手く届いていない」という結果になった時、落ち込むものである。
もちろん「勝手に気持ち乗せてんじゃねえよ」という批判はあると思うのだが、付き合っているのだから、気持ちが乗ること自体はいいじゃないかと思うのである。ピザまん発注時、私は「彼女は焼肉でお腹いっぱいになっていなかった」という事実に狼狽し、「それなら焼肉屋でもう1品頼んでくれればよかったのに」と思ったのだ。

まあ、色々書いても結局私の「不寛容」が原因なのだが、それは後述する。

 

マーケティング戦略への対抗心

これは全く別角度からの話だが、私は「本当は必要なかったものを、安いからといって買う」行為が嫌いなのである。「もう1つ買えば送料無料だから(必要ないけど)買う」なども同様だ。これは個人的な好き嫌いの話なのでそれ以上でも以下でもない。
もし仮に今回の事件が、最初から「どうにもピザまんを食べたいのでセブンイレブンに行く」という目的のもと発生したものであればここまでテンションが下がっていない。彼女は、セブンイレブンに到着してから、「中華まん100円均一」のポスターを発見し、そして初めて「せっかく安いならピザまん食べたい」と発言した。セブンイレブンマーケティング戦略にまんまとハマったのである。「100円均一」というとやたら安いように感じるが、実際安くなっているのは数十円程度で、そもそも食べなければその100円すら出費することはない。だが彼女はポスターを見て催眠術にかかったかのように「ピザまん食べたい」と言い出したのである。悪い魔女の罠に嵌るが如くだ。
「それこそがセブンイレブンの狙いなのだ、騙されてはいけない!」と私は叫びたかった。(現実には「やめときなよぉ」くらいしか言ってない)しかし、私の心の叫びは届くことはなく、彼女はレジに向かってしまった。

結果として、私を深い絶望が襲った。

 

好きゆえの不寛容

とある反応の1つに「彼女のことをまだそんなに好きじゃなかったからそういう些細なことが気になったんだろう」というものがあった。これは明確に否定したい。確かに「好きであればもっと寛容でいられるはずだ」という見方が当てはまる場面もあると思うが、全く逆のこと「好きであるからこそ不寛容になってしまう」という場面も、人間にはいくらでもあるはずだ。
例えば、これが彼女でなく友達だったら、別にピザまんを食おうが、からあげクンを食おうが気にならないと思う。良くも悪くもどうでもいいからだ。
もちろん「ピザまんすら許容できない」不寛容さが未熟さによるものであることは否定できない。「自分が好きな相手は自分が嫌だと思うことを一切しないで欲しい」という考え方は独善的で非現実的なので、褒められたものではない。

結局のところ「(恋愛経験値が低すぎて)余裕がなくキモい」ということなのだが、好きゆえの不寛容なのである。

 

ここまで幾つかの見出しに分けて「ピザまん事件」における私の心の動きを論考してきた。数多のバッシングを受けて私も少しは自分のおかしさに自覚的になり、以前よりは寛容さを身につけることができたのではないかと思う。
しかし「寛容であること」自体は永遠のテーマだ。きっとこれからも様々な問題に直面するだろう。その都度、この「ピザまん事件」をケーススタディとして、自分の中で参照したい。
なお、この話を話題に出す際は、

・「焼肉」でなく「手作りの料理」だったらどうか

・「焼肉」ではなく「ピザ」だったらどうか

・相手が彼女ではなく「友達以上恋人未満」だったらどうか

・偉い人が奢ってくれた会食後だったらどうか

・彼女が焼肉屋でちょっと残していたらどうか

などシチュエーションを色々変えると「それは許せない」「それは許せる」などと人によって寛容さのラインが見えて面白いので、本当に話すことが無い飲み会等でやってみてください。

寄付をよろしく

寄付

数年前から、「途上国の学校に行けない子供に学ぶ機会を与える」という活動をしているNPOに、ほんの少しだけ毎月寄付している。すると「あなたはサポートしているのはこの男の子で、近況はこんな感じですよ」というレポートが1年に1度くらい届くのだ。確かに漠然と寄付するよりモチベーションも上がるし、いい仕組みな気がする。
どうやら、そのレポートによれば彼の一番好きな科目は「体育」らしい。
なんかちょ〜〜〜っとだけ引っかかるのは、私の心が狭いからだろうか。
子供が「体育」が一番好きなのは別に普通のことだし、「体育」だってもちろん立派な科目なのだから何も問題ない。
何も問題ないぞ!オレのバカ!

 

心配

彼女が「ビートたけしの周りに今、信頼できる人がいるか心配だ」としきりに言っていたが、しばらくして「大金持ちの爺さんの心配なんかしてる場合じゃないわ」と改めたので、確かに、と思った。

 

セッション

会議中、おそらく「折衝」のことを「セッション」と間違えている人がいて、「今、取引先と難しいセッションが続いてる」と言っているので動揺を抑えきれなかったが、仕事をジャズに例えていると考えれば、大きくは間違えてない気がしてきた。

 

残念

ノンフィクション本などで、中立的なフリして「言い放った」などという表現を使っている文章は残念だ。「発言した」と書けばいいのに、筆者の主観が入ってしまっている。

 

よろしく

内田裕也とか、昭和世代のアウトローな人たちはなぜ「よろしく」という言葉が好きなんだろう。「4649」とか「夜露死苦」とか。
「よろしく」ってなんか比較的丁寧な言葉遣いな気がするが……
「よろしく」とか絶対に言わないやつの方がアウトローじゃないか?

マッチングアプリ備忘録

kaitensushitaro.hatenablog.com

↑前回の記事

マッチングアプリについて引き続き書いていこうと思うが、主だったことは前回書いてしまったので、今回は細かいことを徒然と書いていくことになる。

ブロックのこと

マッチングアプリでは日常的に「ブロック」が行われる。マッチングした後、主にメッセージのやり取りの最中にブロックされる。匿名な場所であるがゆえに割とカジュアルにそれは起こる。
ブロックされると、メッセージ画面で「このお相手は退会しました」と表示される。(本当に退会している時もごく稀にあるようだが)
この表示が「アプリ側の優しい嘘」だと知った時の衝撃は大きかった。私はこれまでの人生であからさまに誰かから「ブロック」されたことは無かった(はずだ)。しかしマッチングアプリは始めて数日でブロックされたのである。何かメッセージに粗相があったかと思い返してみるがそんなこともない(はずだ)。その日、私はショックで寝込んだ。
しかしどうやらマッチングアプリでは「なんとなく合わない」という理由でも簡単にブロックされるらしい。相手に恋人ができた可能性もあるし、単純にやり取りしている相手が多すぎて整理された可能性もある。ブロックまで行かずとも、返事が来なくなることは日常茶飯事だ。

マッチングアプリの優しい嘘

聞いてはいけない質問

ではなぜ、メッセージの返信が途絶えたりブロックされたりしたのだろうか?初期の私は1つの大きな間違いを犯していた。それは、すぐに「なぜ?」と聞いてしまっていたことである。

「なぜ」という質問は単純な1問1答の形式から外れており、答えるのが大変な質問形式だ。ましてや文字で打つとなると尚更。
例えば、「好きな漫画は何ですか?」これは答えやすい質問だ。「ONE PIECE」と返ってきたとする。しかしそこで、「なぜONE PIECEが好きなんですか?」と聞いてしまうと、もう返ってこない。理由は「返事をするのが面倒」からだ。
私は「なぜ」と聞くことで相手に対する興味を示したつもりだったし、そうすることで会話に深みが出て内容のあるものになると思っていた。しかし前の記事で書いた通り、相手側はまだ「まともな相手かどうか」を探っている段階だ。そこで「なぜ」などと質問されても負担になるだけなのである。「なぜONE PIECEが好きか」などメッセージ段階で全く必要ないやりとりだ。そんな話は会ってからすれば良い。これに気づいてから、メッセージでの返信率は上昇した。

 

新たな自分の欠落に気づく

アプリ内の人気のコミュニティに「カフェ巡り」というものがある。私はこの「カフェ巡り」という趣味がよく理解できなかった。私にとってカフェとは、仕事、読書、食事など「何かをする場所」である。カフェで本を読んでいるのなら趣味は「読書」であり、会話をしているのなら「おしゃべり」が趣味になるはずだ。
「カフェ巡り」をする人は、カフェで何をしているのだろうか。カフェを訪れて、しばらくぼーっとしたのちに、次のカフェへ移動し、またぼーっとするのだろうか…。しかしまた色々と知人にアンケートをとるうちに、「カフェ巡り」とは、「カフェという空間にいること」自体に価値を感じる人の属性なのだということがわかってきた。そう考えるとどうやら私には、他人と比較して「”空間”に対する愛着があまりない」ようなのである。全く無いわけではないが少ないのだ。
「美術館巡り」などもそうだ。私にとって美術館に行くか行かないかは「何が展示されているか」で判断されるべきことで、美術館に行くこと自体は目的ではない。しかし「美術館巡り」が趣味の人は、美術館という空間それ自体が好きなのである。
これは恋愛行動における私の大きな欠落と言えた。デートは「空間が好き」という理由で目的地が決まることが多く、共感ポイントも作りやすい。しかし私には何もないのである。
「好きな店」「好きな公園」「好きな街」何もない…!
なんとなく「晴れた日が好き」とか「緑の多い公園が好き」とかそういうのはあるがその程度である。
テレビ局で働いていた頃は非常階段で寝るのが好きだったが、非常階段が好きなのではなくブラック労働により睡眠不足だったのだ。
「僕、悲しいことがあった時はいつもこのベンチに座るんです」なんて言ってみたかったが、特にない。

 

まともであるということ

前の記事から繰り返してきたが、私のような30代のマッチングアプリ活動では「まともであること」が非常に重要な要素であると感じた。「まとも」の定義は様々あるだろうが、例えば

・敬語が使える
・定職についている
・酒に酔って制御不能にならない
・毎日風呂に入る

とかそういうことである。なんということだろう。恋愛を苦手とし、20代の間に長らく恋愛から遠ざかっていた私にとってこの変わりようは、にわかには信じ難いことであった。
なにしろ小学校の頃は「足が速いかどうか」が最も重要な要素だったのである。中学生になると「球技ができるやつ」に加えて「ちょっとチャラそうなやつ(垢抜けてるやつ)」がモテていた。受験期になり「勉強ができること」も少しは考慮されるようになったが、高校に入ると学校内の頭脳レベルは差がつかないため、やはり「スポーツができるやつ」「顔がかっこいいやつ」がモテていた。大学でも似たようなものだ。それがいつの間にか「まともかどうか」が最も重要な指標になっていたのである。
一体何がどうなったらそんな大転換が起こるのか。運動音痴で暗い人間でも「まとも」であればある程度は土俵に上がれるというこの現状は、私にとっては有り難いことではあったが、では幼少期から植え付けられ続けたこのコンプレックスは何だったのだろうか。

マッチングアプリのプロフィールにも「50m走のタイム」を登録する欄は無いのである。

私が学生時代に体験したり見たり聞いたりした様々な狂騒を、軽い徒労感と共に振り返る。希望を感じるような、理不尽に憤慨するような、複雑な気持ちだ。

 

そんなこんなで私のマッチングアプリ備忘録は終わる。こんな過疎ブログでも、何だか相手がいることは書きづらいもので、あまり具体的なエピソードには踏み込めなかった。とはいえ私のマッチングアプリ生活は何度かの休止期間を経て、無事に終わった。終わったということは、そういうことだ。

ありがとう、マッチングアプリ

マッチングアプリで学んだこと

kaitensushitaro.hatenablog.com

前回に引き続きマッチングアプリの話である。そんなこんなで30代になった私はマッチングアプリを始めることにした。

元々ほとんどなかった私の恋愛筋力は、長いブランクによってほとんどゼロに近くなっていた。特に私は「相手に恋人がいるか」という確認をするのがものすごく苦手だった。苦手というのは、「下手」というのもそうだが、「それをすることによってものすごく疲れる」ということでもある。恋人の有無の確認をするだけでものすごくエネルギーを消費してしまうため、仕事が忙しい時はそんなことにエネルギーを使う余裕もないし、やりたくもないのである。しかもそれで「既に恋人がいる」という結果が出た場合は振り出しに戻ってしまう。私にとってものすごくエネルギー効率の悪い作業だった。その後の「デートするならどこに行くか」「何を着るか」「何を話すか」などを考えることも、私の脳と精神に多大なる負担をかけた。どうも世の中には、それらの作業をすることで楽しくなったり、リフレッシュになる人もいるらしい。あるいはそっちの方が多数派のように思える。ドリカムとか聴いてるとそんな感じだ。

しかし私は残念ながら、そうではなかった。

思えば「運動」と似ている。運動音痴な私にとって「運動」も似たようなものだった。ものすごくエネルギー効率が悪いし、出来も悪い。普通の人ができることが容易にできない。私は「運動」と「恋愛」が苦手なのである。生物としての根本的な二大活動がどちらも苦手なのだ。原始時代なら真っ先に淘汰されていただろう。ただし逆に明治時代であれば(あるいはごく数十年前でも)、私のような人間でも強制的にお見合いが実施され、早々に結婚していただろう。

ある意味「自由恋愛」というものが曲がりなりにも実現しているこの現代は、人間の歴史にとって未知の領域なのかもしれない。

マッチングアプリのありがたみ

そんな私にとって、マッチングアプリはありがたいツールだった。私がなかなか自力で超えることのできなかった「リサーチ」という壁をある程度まで低くしてくれるのである。
まず「相手に恋人がいるか」というのはアプリに登録した時点で判明している。
さらに、趣味や属性が細かく設定できる点が非常に良かった。例えば趣味の登録欄には「映画鑑賞」だけでなく「好きな作品」まで登録することができる。趣味といえども、いや趣味だからこそ「この映画を好きな奴とは絶対に気が合わない」というラインが存在する。逆に「この映画を好きな奴とは絶対に気が合う」というラインもある。「好きな作品」ごとのマッチングは非常に重要なのである。
私は「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」のファンだが、以前同じように「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」が好きだという女性と出会ったことがある。にわかにテンションが上がったものだが、話してみると、なんと好きな「回」が全く違ったのだ。その女性の着眼点は私にとって「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン聴いててそこが一番面白いっておかしいだろ」と感じるものだった。結果的にその会話はうまく噛み合わず、大して盛り上がらないまま終わってしまった。
まあ、アプリでもそこまで細かい分類はできないのだが、とにかく「映画鑑賞」だけでは広すぎて参考にならないどころか、最も気が合わない相手を引いてしまう危険性もあるのである。

他にもプロフィール欄には自由作文のほか、「年齢」「出身地」「年収」「結婚歴」「学歴」「結婚願望の度合い」などさまざまな情報が記載されている。いちいち対面してから言葉を選んで確認する必要がないのである。逆にこちらも情報を開示することで伝える手間が省ける。

さらにプロフィール欄にはさまざまな画像を登録することが可能で、顔出し画像もあれば、顔出しをしていない人もいる。画像は時に言葉よりも多くのものを伝えてくれるものだ。私は女性に「いいね」(マッチング申し込み)を送る際、「フェス」の画像を掲載している人には「いいね」を送らなかった。いや、送れなかったのだ。「フェス」で写真を撮ってそれを掲載するという陽キャ感が、陰キャの私に恐れを抱かせるのである。「ディズニー」の画像も同様だ。「フェス」や「ディズニー」に行って写真を撮ること自体が怖いと言っているのではなく、それをプロフィール画像に設定するという精神性に、私との隔たりを感じずにはいられないのである。
余談だが、とある女性のプロフィールには「車を持っていない男性はお断りです」と書かれていた。ここまで大上段に条件を提示する人も稀だが、もはや潔いとも言える。

こんな感じで細かく趣味を登録できる

 

マッチングアプリで学んだこと

基本的にマッチングアプリは女性の価値が高い場所である。
多くのアプリでは男性のみが有料で、女性は無料で使用することができる。女性は、アプリに登録すると瞬く間に「いいね」が送られてくるらしい。どうも手当たり次第に「いいね」を送っている男がいるのである。
一方男性は登録しても「いいね」が殺到することは基本的に無い。自分から女性に「いいね」を送ることが活動の基本になる。
男性はガツガツとアプローチを送り、女性はそれを見定め、より良い男性を選ぼうとするというシステムで成り立っている世界だ。テレビの動物番組で見る、動物の繁殖行動と構図は変わらない。

では、女性はどのような基準で男性を選んでいるのだろうか。それは「まともかどうか」である。もちろん顔や年収なども重要な要素だろうが、それよりもはるかに重要なのが「まともかどうか」という基準である。
女性には日々「まともでない男」からの「いいね」がどんどん届く。一見してまともでなさそうならすぐに判断できるが、「まともそうなのにまともでない男」も含まれているため、その選別の難しさは熾烈を極めるのである。どんなにイケメンで高収入であっても、まともでないなら避けなければならないと、女性側は考えている。
私は当初「趣味の合う人が見つかればいいなぁ」などと呑気に考えていたし、女性も同じような基準で自分を見ていると思っていた。しかし、それは大きな勘違いで、相手方が自分を見ている基準は「まともかどうか」だったのである。

活動初期、私は「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」でマッチングした女性に、いきなりメッセージで「いや、まいったね」(いつもラジオが始まる時に有田さんが言うお決まりの挨拶)と送ったところ、即ブロックされたことがある。

「まともではない人間」だと判定されたのだ。

私は「くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン」が好きな女性であればこの入り方に笑ってくれるのではないかと思っていた。そのうえ、上田晋也のように「高田文夫か!」と返してくれれば、もう結婚したいと考えていた。あまりにも愚かなり。
しかし女性側にしてみれば、仮に趣味が合うとしても、初対面で「いや、まいったね」などと送る非常識な男とは近づきたくないし、それ以外のまともな男性に時間を使うために早く切らなければならないのである。

・偉そうでないか

・クセが強くないか

・受け答えが噛み合ってるか

様々なチェックポイントがあり、はっきり言って内容はどうでもいいのである。もちろん面白いやり取りができるに越したことはないが、それはオプションの話だ。
であるからして男性側は、少なくともまずは「私はまともです」というアピールをする必要がある。メッセージでは自己紹介から入り、適度に質問に答えつつ相手にも質問を振る。ある程度回数を重ねたら、通話かデートに誘う。この過程に奇抜さは一切必要ない。そして多少は打ち解けてきたかなというタイミングで初めて、砕けた会話も許されるようになるのである。
この法則に気づいてからは、格段にアプリ活動がうまくいくようになった。

環境を知り、相手方の事情を知ることは、結果として自分の振る舞いを向上させるという、良い教訓になったのであった。

次が最後の記事です↓

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