手羽作文

備忘録と反省文を兼ねて書くブログ

映画「アメリカンアニマルズ」を観て考えたこと

2回観てしまった

アメリカンアニマルズ」という映画を2回も劇場で観てしまった。

(↓この予告編、サムネが勿体無いですね)

https://www.youtube.com/watch?v=LBg6xhhwWy0

www.youtube.com

 

映像制作を生業にしている私だが、あろうことかじっと座って映像を見るのが苦手で、映画視聴体験の乏しさは、大きなアキレス腱になっている。その私が、劇場に2回も足を運んでしまった。こんなことになろうとは、1回目観る前は当然予想していなかった。

ちなみに、1回目見終わった後も、予想していなかった。

 見終わってしばらくした後、2回目を観に行こうか迷い始めた。「アメリカンアニマルズ」が実は傑作だったのではないかと思い始めたのだ。だが、結末の分かっている映画を2時間じっと座って観ることができるだろうか、という不安があった。決してハラハラドキドキのスペクタクルではない。

どうせ2回観たら、退屈するだろうと思っていた。

 

そこで、今日は痛快アニメ映画(という噂の)「プロメア」を観に行こうと思っていた。

だが、私があたふたとチケット売り場についた時、「プロメア」は上映が始まって2分経っていたし、既に満席になっていた。私は小走りで来たので汗だくで、雨にも濡れていた。どう考えても「プロメア」目当ての客だ。映画館のスタッフはそんな私を冷ややかな目で見ながら、「プロメアは上映が始まっています。満席でチケットの購入はできません。もしネット予約をされている場合は、自動発券機をお使いください」とマイクでアナウンスした。アナウンスという体をとっているが、フロアには汗だくの私と、自動発券機をいろいろ押しながら、「う~ん」と唸っているおじさんしかいない。

私に言っているのだ。

私は上映に遅れた上に、予約もしていないことが、とても恥ずかしく無能なことに思えた。どうにか、「プロメア」目当ての客だと思われないよう、他の映画を観にきたことにしようと思った。そこで、「アメリカンアニマルズ」の表示を見つけ、何食わぬ顔で、チケット係に「アメリカンアニマルズ1枚」と言った。

こうして、場当たり的に2回目の鑑賞が決定したのだった。

 

だが、アメリカンアニマルズの上映まで、50分もあった。

きっと、チケットカウンターの女性には、こちらの心の動きは全てバレていただろう。映画館で働いていれば、このような客は、きっと1週間に1人、いやもっと見るのではないだろうか。私の誤魔化し方は、とても凡庸で杜撰だっただろう。今思えば、「アメリカンアニマルズ的」だったと思う。日常の中にも、アメリカンアニマルズは潜んでいる。

 結論から言えば、2回目のアメリカンアニマルズは、前半やや退屈だった。だが、後半は1回目よりも、心に刺さる視聴体験だったと思う。このどっちつかずな感じも、「アメリカンアニマルズ的」な感想だ。(気に入って2回使ってしまった)

だが、この映画は結局のところ、傑作だった気がしている。その理由について、この文章で述べていきたい。

 (お断り:ここから先はネタバレを含みます)

 

 

アメリカンアニマルズ」という映画のあらすじを非常に簡単に述べると、

 

1、「特別になりたい」大学生たちが、

2、図書館の貴重な本を盗んで大金を得ようと画策し

3、実行した結果、無様に失敗する

 

というストーリーだ。

非常にシンプルで面白みのないストーリーだが、1つだけ特徴があるとすれば、この映画が実際の事件を元にしており、その合間に、実際の事件の当事者たちの回想が挟まれるということだ。

 このように説明すると、「それって『世界まる見え』とかでよくやってるただの再現ドラマじゃないの?」という反応になると思う。確かにその通りだ。斬新な手法のようには思えないし、ドキュメンタリー映像を挟むことで、むしろドラマに入り込めないという弊害が発生するように思える。果たして、それと「アメリカンアニマルズ」の違いは何なのだろうか?

まずはそこから考えていきたい。

 

アメリカンアニマルズ」と「世界まる見え」の違いは何か?

自分で設定したものの非常に難しい問題だ。今、1発で正解が出せるとも思えない。

だが、今のところの仮説としては、ドキュメンタリー映像に登場する、実在の人物たちの語る内容に違いがあるのではないか?

つまり、

 世界まる見え:事実の補足を語る

アメリカンアニマルズ:自分がその時何を考えていたかを語る

という目的の違いがあるように思える。アメリカンアニマルズでは、実在の人物たちはほとんど事実の補足をしない。現実に起こったことは、全てドラマの中で描かれていて、彼らが語るのは、その時の自分の気持ちだ。

「主観的なこと」しか語らないようになっている。

つまり、観客を登場人物の主観に引き寄せるための装置として使われている。フィクションなら、登場人物が自分の心情をナレーションで説明することは多々あるが、実在のモデルがドラマ中の自分の心情を説明するという手法は稀だ。

だが、そこにリアリティが出る。

監督の狙いは、観客に、この物語を「自分ごと」だと思わせることだ。

 

その狙いは、音楽の使い方でも顕著に現れる。

主人公の1人、スペンサーが、変装しての犯行を諦めて、図書館から外に出るシーン、それまでの緊迫したBGMが、一気に安らぎを表現するBGMに変わる。自分が犯罪者にならずに済んだというスペンサーの安心感を、音楽で一気に強調する。

ここで、安らぎのBGMを入れずに、無音にしていたらどうなっていただろうか。観客はスペンサーの気持ちから距離を置くことができる。冷静な観察者として、彼の葛藤する様子を見ることができる。だが、監督はそれをせずに、観客にスペンサーの気持ちに寄り添うことを促している。

 全編を通して、監督は様々な手法を使って、登場人物の気持ちに寄り添うことを促す。登場人物に感情移入を促すのは、ドラマとして特別なことではないが、今回はドラマの登場人物ではない。現実の犯罪者4人に感情移入させようとしているのだ。しかも、特に悲劇的でもなく、同情の余地も無い、バカな犯罪者に。

 

それが、この映画の肝ではないだろうか。

 そのための今回のドラマ&ドキュメントのミックスであり、実在の当事者たちの語りが、ドラマ部分の感情移入を阻害するどころか促進するという画期的な手法であり、少なくとも、私に対しては成功したのだった。

 

「思ってたんと違う」と思わせるために

では、最終的に観客が主人公たちと共有する感情とは何だろうか?「思ってたんと違う」である。M1決勝戦笑い飯西田のように、「思ってたんと違う」ということは誰にでもある。主人公の4人もまさにそれだ。そして観客も、それを体験させられてしまう。

 細かいこともたくさんあるが、象徴的なシーンがいくつかある。

 

①老人への変装

冒頭で、彼らが徐々に老人に変装していく姿にはアップテンポなBGMがついている。その変装はとても出来が良く、メイクの手際も鮮やかに見える。スローモーションで車から降りる姿は、これから盗賊たちの痛快なクライム・アクションが始まるように見える。

 だが後半、再びそのシーンが描かれる際には、重々しく緊迫したBGMがついている。4人は落ち着きがなく、明らかに挙動不審である。とても手練れの盗賊には見えない。

 

②犯行シーン

基本的に犯行を企てるシーンは、ワクワクするような仕掛けが盛り沢山だ。図書館の図面を貼り合わせるカット。詳細な模型。謎のバイヤーとの接触など。だが極め付けは、彼らが華麗な犯行をイメージするシーンだ。その手際は鮮やかで、まさに「オーシャンズ11」のよう。

 だが、後半で描かれる実際の犯行シーンは、イメージとは何もかもが違っている。司書はスタンガンでは気絶せず、しかも失禁し、手袋はうまくはまらず、鍵の在処は分からない。

 最も印象的なのは、音(声)だ。

イメージシーンでは誰も何も喋らない。盗んだ本を読みながら立ち去る余裕のウォーレン。だが、現実では、まず司書が気絶せずにずっと喋っている。「殺さないで」とか「手は縛らないで」とか。ウォーレンとエリックもずっと怒鳴りあっていて、ガラスを割ったり、本の運搬もドタバタし、とてもうるさい。

 

③ニューヨーク

最初にスペンサーとウォーレンがNYを訪れるシーンはまさに青春ロードムービーだ。刺激的で、全てが明るく見える。だが、本を盗んだ後に訪れたNYは土砂降りで、絶望的に見える。やることなすこと失敗し、仲間割れに陥る。

 このようにして同じものを両極端に描くことで、監督は我々にも、4人の「思ってたんと違う」を体験させようとする。だがこうして振り返ってみると、監督の手法は結構露骨で単純なようにも見える。ではなぜ私は引っかかったのだろうか。

それは、冒頭に出る「この物語は真実である」という一文が効いているからだ。この一文があるせいで、観客は各シーンの”印象”まで真実であるように錯覚する。まるで主人公たちがワクワクしながら変装したと思いこむ。だが、真実なのは客観的事実だけで、印象には監督の演出が加えられている。

 真実に付け足す印象はいくらでも操作できるということを、ドキュメンタリー作家でもあるこの監督はよく分かっていて、その振り幅をこの映画で最大限に利用している。

 

実際テレビ制作ではよくあることだ。街頭インタビューなんて、街の総意であるかのように流されているが、

・質問の仕方

・回答者の選別

・カット編集

でいくらでも視聴者の印象を変えることができる。視聴者は、たとえ分かっていてもその影響から逃れるのはとても難しい。

 

 この映画では、その手法が、映画全体に渡って、主人公の追体験をするように使われている。特定のシーンでの感情移入を促すといった局所的なレベルではなく、結果的に映画全体の印象を操作するために使われている。

 つまり、ざっくり言えば

・ドラマ的な方法で観客の感情移入を促進し、

・ドキュメンタリー的な手法で観客を振り回す

結果的に、観客は登場人物の体験を共有するという役割分担だ。大胆かつ、緻密ではないだろうか。

  

劇的にならないということ

この映画は、失敗する男たちを描いている。ハッピーエンドではない。

どちらかといえば、バッドエンドである。この映画におけるバッドエンドとは何かというと、「特別な人間になろうとしたがなれなかった」ということだ。だが、映画におけるバッドエンドというのは、えてして劇的になってしまう。劇的とは、「特別」と言い換えてもいい。「特別になれなかった」ということを描いた映画が劇的になってしまっては本末転倒だ。なので監督は、この映画が劇的にならないように、かなり気を遣っている。(時折劇的になりかけるが、踏みとどまる)

私には、反転してそれが、とても悲劇的なように思われる。映画化されてまで、悲劇になることを許されない犯罪者たち。彼らは、徹底的に特別にさせてもらえない。それが、何よりも悲しいことだと思う。

 

 例えば、彼らの根は善人で、家族がいて、犯罪を犯すにあたっても常に葛藤を抱えていることが分かる。「犯罪を犯した善人の苦悩」は一見悲劇的な要素だが、その一方で彼らは徹底的に間抜けである。

脱出経路の下見もできていないし、オークションハウスでも失態を繰り返す。仲間内でも罵り合ってばかりだし、嫌な役目を押し付け合う。何より、犯罪に走る動機がしょうもない。(これが、スペンサーが図録の絵に魅せられて、どうしても自分のものにしたくて、という動機なら劇的だが、実際は売りさばこうとしているだけだ)

 逆にそういったしょうもない犯罪者は喜劇的になりがちだ。実際、この映画でも喜劇のように思われるシーンがいくつもある。(エレベーターの押し間違い、轢かれるウォーレンなど)だが、その一方で司書の失禁などをリアルに描くため、笑いづらい。

クライマックスで彼らが逮捕されるシーン。神秘的な音楽が流れてスローモーションになり、悲劇的なようにも見えるが、十分に悲劇的にするためには、彼らに抵抗させたり、何かを喋らせたり、泣かせたりする必要がある。だが、実際には彼らは無抵抗で、あっけなく捕まっていく。(チャズは銃を構えるがすぐに下ろしてしまう)しかも2人は上半身裸だ。

 だが2回目に観た時、警察が来たことを察知するウォーレンの顔を見て、私は少し、泣きそうになった。悲劇にも喜劇にもなれないまま、この犯罪が終わってしまうことが、ウォーレンにとっては一番悲しいことだと伝わったからだ。

 

インタビューを受ける現実の彼らも、とてもフラットである。冗談を言うこともあるし、四六時中犯罪を悔やんでいる訳でもない。不幸のどん底というわけでもないし、社会復帰も果たしている。それが、7年という刑期をたまらなくリアルに感じさせる。

 

もう1つ、泣きそうになるシーンがある。劇中のスペンサーが、車の窓の外から現実のスペンサーを見るシーン。それをフリとして、ラストに再び同じシーンが流れる。スペンサーの家の前の道、その道を、変装した7年前の自分が通り過ぎる。あの時思いとどまっていれば、と7年後のスペンサーが、何度も何度も考えたことが無言のうちに分かる。劇的なシーンにするにはあっさりしすぎている。だが、リアルな後悔というのは、そういうものじゃないだろうか。何度も何度も、ぼんやり過去を振り返る。いちいち泣いたりはしない。

でも、決して忘れることはできない一瞬のことだ。

 

「特別になりたい」という病

この映画は、決して万人に大絶賛されているわけではないようだ。この映画が私に刺さった理由の1つに、私が彼らと(ほぼ)同い年であることがあると思う。

彼らと同じように、私にも劇的な背景はない。育った家庭に問題があるわけでもないし、特に非行に走ることもなく、順調に大学まで卒業した。特別な金持ちではないが、生まれてからこれまで飢えたことはないし、空襲に怯えたこともない。地球上にこれまで存在した全ての人類の中で、幸運な上位10%に含まれるだろう。

だが、常に「これでいいのか」と感じている。

 

生まれた時から平和だ。その一方で、過去の英雄譚や心踊るフィクションはいくらでも溢れている。現代の人気者達の情報も常に最新のものが手に入る。そんな情報に囲まれていると、いつの間にか「あなたは?」と突きつけられているような気がする。

映画が終わって、携帯電話の電源を入れる。誰からも連絡は来ていない。別に普通だ。だが、どこかでがっかりしている自分がいる。誰だって、ひっきりなしにデートの誘いが来たりある日突然自分のツイートがバズって通知が何千件も来たりすることを期待している。それでいて、いざそうなってみたら「思ってたんと違う」となるんじゃないだろうか。

 今は7年前よりも、さらにそれが加速した時代だ。でも、その口火を切った世代は、私たちなのかもしれない。私たちは、人類で最初に携帯電話を手にした高校生だ。彼らの犯罪の動機「退屈だった」「特別になりたかった」を、私は笑えない。私だって、何かのきっかけで友達からそういった計画に誘われていたら、(特に学生のときだったら)参加していたかもしれない。

ウォーレンの言った「どうせいつかは死ぬんだ」という台詞は、何かに踏み出す時に背中を押してくれる。でも実際には、踏み出す場所を間違ったとしても、私たちはそう簡単には死ねないし、逃げることもできない。

 

新卒で入ったテレビ局を辞める時、人事の方に、「なぜ君はそんなに生き急ぐのか?」と聞かれたことを思い出した。その人は、私を引きとめようとして、「そんなに焦らないで、今が多少不満でも、このまま辛抱してこの会社にいれば、人生を平穏に進めることができるんだよ?」というニュアンスで、(善意で)言っていたと思う。その時私は、「自分は生き急いでいるのか、そうかもしれないな」と、やや他人事のように思った。実際私はその後ネット動画業界に移り、さらにフリーランスになったことで、生活のスピード感はアップし続けている。企画→撮影→編集→納品までの期間はどんどん短くなり、収入は安定せず、毎月初対面の人と仕事する。30歳だが、人生がまだ倍以上続く見込みであるとは、とても信じられない。これで良かったのか、悪かったのか、そんなことをあまり考えずに済んでいるということだけが、現在の真実だ。

 

「なぜ君はそんなに生き急ぐのか?」に対する答えはまだ見つかっていない。

でも、アメリカの同世代に、同じような気持ちを抱えた4人がいて、自分よりも遥かに派手に、しかも間違った方向に「生き急ぎ」、それでも生き続けているということに、少しだけ勇気付けられた。何よりも、彼らが映画にその顔と名前を晒して出演したということ、被害者と、彼らの出演許諾を取った(きっとすごく大変だったはずだ)監督と制作チームに、尊敬の念を抱いた。